私の近くにあった言葉と表現、および私のこと

2025年

突然できた公園のような場所

イオン大村店あたりをGoogleストリートビューで見ていたら、その商業地帯一帯を管理している不動産会社の社屋がなくなっていた。特別に関わりがあったわけではないが、情報のやり取りで少し接点があったのと、社名もユニークだったので覚えていた。どうやら昨年、どこかの会社に事業譲渡して解散したらしい。

社屋は、管理している商業地帯一帯の領域内にあった。ショッピングモール、電器店、スポーツ用品店、スターバックス、結婚式場、そんな賑やかなエリアの中にぽつんと場違いに存在する、ごく普通の二階建ての社屋だった。それが消えている。しかし更地になっていたわけではなく、なぜか公園になっていた

ただ「公園」と言い切ってしまうのもちょっと違和感があって、まず地面は芝や土ではなく舗装用のタイルが敷かれていて、数本の木が植えられているが、設備といえる類は何もない。木のうち一本を囲うようにベンチがあるのだが、そもそも入口はチェーンで封鎖されていて、一般に提供されている感じではない。その傍らにおしゃれなステンレス風の立て看板が設置されているが、ここが何という場所なのか、誰が管理しているのかなど、何も書かれていない。まるでのっぺらぼうのような公園だ。

普通に考えると、この場所は現在事業譲渡先が権利を有しているのだろうけど、なぜわざわざ公園にしたのだろう。更地のままより公園らしい見た目にしておけば固定資産税を低減できたりするのだろうかなどとも思ったが、仮にそうであっても、そもそも公園を作るのだって相当な金がかかる。長い目で見れば効果があるかもしれないが……。


そうやって違和感をずっと抱き続けていたところ、ここが私有地ではない、つまり市の土地である可能性に思い至った。ここ一帯はもともと存在した地面ではなく、大村湾の一部を埋め立てて作られた商業地なのだ。不動産会社が土地一帯の権利を有しているわけではなく、権利は市がずっと持ち続けていて、管理をずっと委託されていたという関係だった可能性がある。

そうであったなら、なくなった会社の跡地の権利は事業譲渡先ではなく市にあり、市はそこを公園的なスペースにした……という流れが想像できる。都市計画上、必ず一定の割合で公園を作らないといけないというような決まりを聞いたこともあるし、どこかに作らざるを得ないならここに作る、というくらいの温度感で作られたのかもしれない。

上記はあくまで想像でしかないが、少なくとも譲渡先の企業に「空いた土地にはとりあえず公園を造る」というポリシーがあるから、というようなほんわかした理由ではなさそうだ。入口にあるのっぺらぼうの看板にはそのうち「コミュニティスペース」とかいう当たり障りのないふわっとした名前が書かれるのだろうか。


ふとアップルもストリートビュー的なことをやっているという話を思い出したのでマップにアクセスしてみたところ、それにあたる「Look Around」は使えなかったものの、マップの航空写真はすでに公園になった状態のものになっている。Googleマップと比較し画質がクリアであることにひとしきり感心しつつ、私は2023年から今までに何が起こっていたのかをほぼ確信した。

その確信のままGoogleストリートビューに戻ってよく調べると、2023年12月の時点では旧社屋がまだ存在するが、その敷地の右奥の方に新しい建物がある。つまり会社は事業譲渡よりも前に新しい社屋を造って、そこへの引っ越しを進めていたようだ。そして2024年6月には旧社屋がなくなり公園造りが始まっているが、それから半年程度で事業譲渡が行われ、会社は解散している。2025年5月には新しい社屋のドアのガラス面にそれらしい張り紙が一枚されているのを確認できる。

公園と社用敷地は低めの柵で分けられており、直接行き来はできなさそうだ。アップルのマップの航空写真を見ると、タイルが敷かれた公園とは対照的に、社用敷地の方は社屋とほぼ同じ面積のエリアが芝生に覆われて緑化されている。会社規模を拡大する際の用地として考えられていたかもしれないが、今は裏庭のようなもので、夏になれば社員がバーベキューでもするような光景が想像できる。しかしそんな季節は1回だけ、ないし一度も訪れなかったかもしれない。

事業譲渡の話を進めつつも新社屋を造る、というのは流石に考えづらいので、新社屋で心機一転再スタート、とした後に事業譲渡の話が進んだと考えるのが自然だろう。つまり最も可能性が高いのは「新社屋への移転完了後、旧社屋エリアを市に返却したタイミングで事業譲渡の話が持ち上がった」というシナリオだ。実際に事業譲渡をするほどの状況だったわけで、これならすべて辻褄が合うように思える。


せっかくの新社屋は譲渡先会社の大村営業所ということになるのだろうが、駐車場にもチェーンが張られドアにも紙が貼ってある以上、常駐的に利用されているようには見えない。新しい社屋がこれではもったいないので、もし売られているのならどこか買い取ってほしい。

最初の方にざっくり書いたが近隣にはスターバックス、星野珈琲店、コッペ田島(コッペパン専門店)、ヤマダデンキ。自転車があれば数分で行ける範囲にイオン大村、ダイソー、セカンドストリート、スシロー、ガスト、濵かつ(リンガーハットがやっているとんかつ屋)、眼鏡市場、中古車のガリバー、市営の屋内プールまである。結婚したくなったらパークベルズ(結婚式場)もあるし、毎年8月1日には至近距離で花火大会を見られるおまけが付いてくる。

道路の向かいにはフタタ(スーツ屋)まである。ここまでくるともうビジネスパーソンのためにあるようなもので、金さえあれば何にも困らない。ただ唯一欠点を挙げるとすれば、その経緯上なかなか事業運が上向かなさそうな社屋ではある。


本筋からそれるので省いたが、会社跡地をGoogleマップで見ると、なぜか聞いたことのない政治団体の名前が表示される。どうやら不動産会社の社長が自らの政治団体を同じ所在地に登記していたようだ。これも5年くらい前に解散しているようなのでGoogleマップに表示されるのはおかしいのだが、こういった情報は編集権限を持っている人間が追加したり削除したりしているらしいので、それこそどこかの会社が新たなピンを立てようとしない限りは残ったままになりそう。

DisplayPortケーブルのラッチ

先週注文した、AmazonベーシックのDisplayPortケーブルが到着した。掌に乗るくらいのボール紙の薄い箱に封を兼ねたシールのラベルが貼ってあるだけで、箱自体には何の装飾もない。店に陳列されるものではないので中身が見えるパッケージにしなくてもいいし、表面にイラストを描く必要もないわけだ。

この製品にはDisplayPortケーブルのプラグ部分に大概ついているラッチ(抜けるのを防止するための爪)がついていない。引っ張られたときに潔く抜けてくれないと悲惨なことになってしまう気がどうしてもするけれど、実際ないとどうなのかを検証したくて選んだ。会社が買ってくれるのを利用しない手はない。

実際に端子に挿してみたところ、ラッチがなくても抜けてしまいそうな感じはなかった。ただHDMIと比べてプラグ部分が大き目でしっかりしているので、差込口が下向きだと、どうしても抜けていないか定期的に確認してしまいそうでもある。

そういえば懐かしのDVIやVGAにも、固定用に締め付けるためのねじが両端についているのを思い出した。DisplayPortのラッチは挿せば自動ではまるけど、ねじの方は締めないなら締めないままですぐ抜けるようにもできるという利点がある。


一緒にロジクールのWebカメラも購入。2000円でごく普通のビデオ通話環境が手に入った。ただAmazonに「壁紙ダウンロード付き」と書いてあったのに、どうすれば入手できるのかがよくわからない。実際にダウンロードしたというレビューも見当たらないのが謎に拍車をかけている。

DisplayPortのケーブル

職場で急にDisplayPortケーブルが必要になり、とりあえずは自前のを持っていこうと箱の中をごそごそやったところ、1mくらいの長さのがエアーキャップの袋に入った状態で見つかった。しかし過去の私が袋を止めるマスキングテープ部分に「DP 1m 接触不良?」とメモしている。

クエスチョンマークを付した理由を覚えておらず、そもそも捨てずに保管している理由も分からない。接続を試してみたところ、画像も音声も問題ない。しかしPCを放っていて自動でディスプレイの電源が切れると、マウス等動かして復帰させようとしても、PCがディスプレイを認識しない。

一度電源が切れた後に通信不能になるというのは、確かに理由がわからない。それ故の「接触不良?」なのだろう。ともかくこれでは継続的には使えないので、明日職場で働いてもらったら、輪廻転生の旅に出てもらおうと思う。

「これくらいの長さのDPケーブル買っといて」と誰かに言っておけばいいような整った職場ではないので、自分で選定しないといけない。おそらく選ばれるのはAmazonベーシック。可もなく不可もなく、という単純な理由。

なぎなた部の夢

なぎなた部に入部する夢を見た。私は武道場の横のほうに作られた、引き戸で仕切られた小さい部屋みたいなところに座って、つやつやした板の貼られた空間を眺めている。人は誰もいなくてがらんとしている。

ただなぜかその状況で、私は「なぎなた」という競技と自分とのミスマッチを早々に感じており、退部ってどうやってするのか調べないと、なんか紙を出すんだっけ、などと思っているのだが、そう思いつつも、通りかかったいかにも体育部なTシャツ姿の先輩が大きな声で挨拶してきたので、私も大きな声であいさつしてみる。

悪くないかもな、と思ったところで目が覚めた。


それだけの夢なのだが、私が通っていた学校になぎなた部はなく、もともと体育会系でもない私の人生に全く交わってこなかった競技なのに、なぜチョイスされたのかは本格的に不明。というかあの長い武器や防具、その他なぎなたを思わせるものは何一つ出てこなかったので、もはやなぜ「なぎなた部だ」と認識していたのかもわからない。

「悪くないかもな」と思ったのは確かだし、運動部や体育会系への憧れはないわけではないけれど、それは今会得している「テキトーにやる能力とやめる能力」があるからで、中学生当時は吹奏楽部で一年の半分くらいマーチングバンドをやっていてそれがほぼ明るい体育会系だったので、もうそれで一生分の「体育会系の自分」を使い果たした感じ。

その架空の先輩はシンプルにかわいかった。おそらく彼氏がいる。

席も場所もない夢

「席がない」「あるはずの場所なのに消えている」系の夢を見た。まず前段階として、私は親戚の男性に何かの場所と日時を伝えられているのだが、私があわてて大学ノートとペンを取り出すと「そうそう、メモを取らないとね」などと言われ、私はその人の妙に見下した態度が好きでなく、少し腹を立てる。

場面は変わり、あるホテルの中。大きい会議室くらいのスペースで、何かの食事会が行われている。私は結局メモをとれなかったのか、手に大学ノートを持ったまま、その親戚の男性からもう一度聞き出そうと機会をうかがっている。しかし当の彼は周囲と楽しく談笑しており、なかなか割って入るチャンスがない。

私はいらいらしつつ、いったんあきらめて席につこうとしたところ、自分が座れる席がどこも開いていないことに気づく。うろうろして開いているか微妙な感じの席を見つけて周囲に尋ねるもあいまいな返事。ふとテーブルの下を見ると何やら名前の一覧みたいなものが貼ってあり、どうやら皆それに気付かずに好き勝手に座っていた様子。会場が少しわちゃわちゃし始めたところで、私は積み重なったフラストレーションもあり腹を立てて会場を出て行ってしまう。

せっかくなのでホテルの中を見回っていたが、そろそろ状況が変わっているかも、と会場に戻ってみたところ、自分の席どころか、会場自体が消えている。そもそも雰囲気そのものが完全に変化していて、どちらかというと自分が戻ってくるべき場所を間違った感じ。

別の階に行っていたわけでもないし、そんなに遠くまで行っていたわけでもないけど、念のために別の階に移動して調べる。しかし見つからず、ひとしきりじたばたした後、私は皆と合流するのは多分無理なんだろうなと悟り、自力で一人で帰ろうと決め、ホテルを出て、公共交通機関に乗り、なぜか降りる。

うっすらリゾート感のある街をあてもなく歩いていたところで、携帯電話の存在を思い出し、見てみると7件とか9件とかの着信履歴。見るとそのうち一つが「みんなが共有したタイプの嫌さだったんだよ」という独特なメッセージで、わたしはそれを「あなたが腹を立てたのは無理もない、だから気にするな」という慰めの言葉と受け取り、ありがたいなと思う。

しかしそれで状況が変わるはずもなく、そのあとも何かしたような気もするが、目を覚ますと十一時を過ぎているわ、部屋はクーラーも扇風機もタイマーが切れて蒸し暑いわ、全身だるいわ痛いわ、寝れば治ると思っていた喉の奥の痛みも大して治っていないわ、休日で用事もなかったので特別な問題はないが、夏の動きやすい午前中の時間を台無しにしてしまった、というがっかり感ですっとんでしまった。覚えていてもそこまで大きい展開ではなかったと思う。


「席がない」「さっきまであった場所がなくなってる」というのは私の夢の類型でよくあるんだけど、最後に他の人から慰めが入る展開は新しい。しかし起床した今改めて考えると、慰めではなく「みんな我慢していたのに君だけ腹を立てて出ていったのはおかしい、君も我慢すべきだった」という非難だったようにもとれる。

このシーンは「これを『私』はポジティブに受け取ります」というシナリオありきで脳が作り出した内容だったんだろうか。それとも脳は単に場面を作り出して『私』に送出したのみで、『私』がどう思うかは一切関知していないんだろうか。もし前者なら『私』はあらかじめ決められた創作世界の中でじたばたしていたということになるし、後者なら夢を生成する脳の部位と『私』である脳の部位は違う場所だということになる。そして『私』の思考や行動のフィードバックを受けつつ、リアルタイムに次の場面を生成し続けている、ということにもなる。

何かで『人は世界の中に生きているのではなく、世界を自分の心の中に映して、その世界の中で生きている』というような話を読んだ。となると、普段『世界を心の中に映して』いる脳の部署が、ストレージに保存された記憶を勝手に使って世界を作って、それをあたかも現実世界のように『私』に見せている、というのはいかにもありそうな話だ。これは人生に興を添えるためではなく、夢を見ている際にしゃべったり手足を動かしたりする人もいるように、心は『私』を起きているかのように錯覚させることで、危機に見舞われた際に一刻も早く逃げ出せるよう復帰可能な状態にしているのかもしれない。

だとすれば、『私』がフィードバックした言動や思考をリアルタイム反映する必要もなく、単に『私』に提示されている一人称風の書き下ろしストーリーを、『私』は勝手に自分の言動や思考のように体験・ロールプレイングしているだけ、という可能性もある。というか私は見たことないけど三人称の夢というのもあるらしいので、むしろその可能性が高い。これなら「思っていることとやっていることが一致していない」「やりたくないのにやり続けてる」みたいなパターンがあることにも説明がつく。しかし一人称の夢と三人称の夢ではそもそも見るシステム自体が異なるという可能性もある。

夢が脳による創作ストーリーのロールプレイングなら、それを夢だと気づかずに最後まで体験してしまうのと、夢ではない現実世界を生きるのとはどう違うのか、という話でもある。よく夢日記をつけると夢と現実の区別がつかなくなって精神に異常をきたすとか言われるが、こういうことを延々と考えはじめると、そうなるのかもしれない。

このあたり、調べれば脳科学の研究成果とともにあっさり結論は出そうだ。しかしあえて調べずに頭の中で転がしていると何かアイデアが出そうでもあるので、あえて調べないでおく。


冒頭のくだり、普段は「メモを取らないとね」と言われても別に腹を立てることなんてないのだが、なぜかその時は自分の記憶力の悪さをやたら皮肉られているようで腹が立った。そういう親戚は心当たりがないので、おそらく架空の人物。

あとホテルは、どちらかというと大きめの旅館といったところで、もっと言えば学校のような雰囲気だった。どこまで歳を取っても学校というのはついてくるんだなと思わざるを得ない。

上書きモード

Insertキーいらないという人がいるけど、個人的には時々使う。しかし絶対に必要かと言われればそうでもなく、ウェブ系の各種コードを書く際に、行をコピペして連番部分を無心で入力する時に使うくらい。あとはInsertなので何かを挿入するホットキーに使ったりといった感じ。

そもそも大抵のソフトではデフォルトが挿入モードで、それを上書きモードに切り替えるのだから「Overwriteキー」の方が適切なのでは? と思ったら大昔は上書きモードの方がデフォルトだったとのことで腑に落ちた。確かに文字列処理的にも画面の再描写処理的にもそうっぽい。

高校生の頃は自宅にあったワープロ(ワープロソフトではなくワープロ)を使って文芸部の原稿を書いていたけど、確かにその当時は上書きモードの存在を謎だと思っていたのを思い出した。もしプログラムやコードを書く人生を歩んでいなかったら私もInsertキーいらない派だっただろうなと思う。

連休中、スパムが減る

迷惑メールが特にひどくなったのはここ数年間ぐらいだけど、この件はそのあたりからずっと謎に思っていた。お盆みたいに日本だけ連休のケースでも明らかに減るので、海外のスパマーも連休だからというわけではないのは予想がつく。

国内の会社のPCが踏み台にされているから(連休中はPCがシャットダウンされているので送信されない)という理由だったらおもしろいなと思いつつ調べたところ、「忙しい時に送った方がうっかりリンクを開いてもらえるから」ということらしく興がさめた。

むしろ休日には「午後からの会議の資料を送ります」的なメールでも送れば効果が挙がるのではと思ったけど、海外ではそもそも休日に仕事用のメールを見るなどという珍妙な価値観はないのかもしれない。

刺身たんぽぽ

そういえば最近刺身にたんぽぽが添えられているのを全然見なくなった。かつてはプラスチック製のそれが決まって添えられていたはず、と「パックのお刺身」と画像検索してみると、プラスチックのたんぽぽが乗ってるのはひとつかふたつぐらい。どうやら刺身たんぽぽは存続か廃止かの瀬戸際にあるらしい。

そういう意味では「刺身にたんぽぽを載せる簡単なお仕事です」というあのコピペ、求人の中で実在するフレーズだったのかは謎だけど「なんとなく必要だと思う、でも本当に必要かといわれるとそこまでではない」というあいまいな集合意識の中で成り立っていたお仕事だったんだなあ、となんだか感慨深い。

刺身たんぽぽって何かのトリビアがあった気がするけど何だったろう、と思って調べたところ、そもそもあれはたんぽぽではなく小さい食用菊で、天然の殺菌作用が期待できるのでむしろ必要寄りの存在らしい。教養と記憶力のない自分にがっかりした。ちょうど忘れるタイプのトリビアなので、数年後また同じことをしそう。

Windows Update後の再起動

PCを新調してから一か月、朝起きるとテキストエディターもブラウザーも常駐ソフトも全部強制終了して再起動が完了していて「そういう子だったね……」としんみりした。旧PCではいろいろいじってそうならないようにしてたかもしれない。

そもそも休止状態が解除されなければいいはずなので、とりあえず電源オプションで「スリープ解除タイマーの許可」をオフにして様子を見ることにする。ただなんとなくこれでは解決しないような気がすでにしている。

Windows Updateの実行を5週間一時停止して月に一回手動でやるのを考えたが、ウイルス対策まで月に一回しか更新されなくなるのは心もとない。その他あれこれ調べたり考えたりしてみたが、結局はもう観念して、

  1. 必ず週に一回PCをシャットダウンする(いつもはスリープか休止状態)ので、その際に手動でWindows Updateをかける
  2. 次に起動したときに1週間一時停止にする

ということにした。

私のように決まったルーティーンでシャットダウンするユーザーなら、その際に更新を適用してくれるのが一番都合がいい。そういうのを自動で検知して自動で設定してくれるような機能があればいいのにと思う。

車載モニタの故障

先週、車載モニタの映像が二重になり、かつ目立つ黒線が入る状況になり、特にバックカメラがまともに使えず大変危険なのでディーラーへの来店を予約した。なんとなく高くつきそうな予感がしたが、車に乗り始めてこのかたディーラーに任せっぱなしなので、安くで済みそうな他の店に行くという選択肢がない。

他の店をよく知らない以上自信をもって言えたものではないが、特別にサービスがいいとは思っていない。詰めの甘さを感じることも時々あり、かつて点検後にうっかりホイールの蓋を一つ装着しないまま帰されたこともある(なぜか座席の下にあった)。とはいえ決して悪い人たちではないのだ。悪い人だったら問題外だが……。

とにかく昨日がその予約の日で、ディーラーの駐車場にはもう前のめりで停めるぞ、と心に決めつつ車のエンジンを入れたところ、普段通りモニタが表示され、バックカメラ状態も問題なく、どう見ても直っていた。キャンセルしようか迷ったが、一時的に過ぎない可能性もあるし、念のため点検してもらおうとそのままディーラーへと赴く。

結果、配線を確認したが問題は見られないという診断で、次に再発したらモニタ部分の修理の見積もりを取りましょう、ということで話がまとまる。それなりに作業をしてもらったにもかかわらず請求はなかった。他の店を知らないので何の根拠もないが、つまりこれがサービスがいいということかもしれない。


好きで車に乗っているわけではなく、むしろ乗らなくていいなら一切乗りたくないし、そんな姿勢なので当然の帰結として運転も下手だ。世のため人のためにも早く免許を返納したい。仮に過失なく人を殺して完全に法律で守られても、人を殺したという事実を背負って過ごす人生はあまり楽しそうではない。

モードを切り替えるボタンをぽちぽちと押すといろいろと画面が切り替わる。オーディオとラジオくらいはわかるが、注意散漫になって危険なのでまれにしか使わないし、車載モニタ自体にも関心を持てない。今日「タッチには反応しましたか?」と訊かれてタッチパネルとしても操作できることを購入七年目にして初めて知った。

お盆前のにおい

今日は曇りがちで涼しかったので、昼ちょっと過ぎまでエアコンをつけずに窓を開けていたら、何かを燃やす秋っぽいにおいが漂ってきてなんだかよかった。

何を燃やしているにおいだったのか、これといって思い浮かばなかった。思い浮かばなかったというか、思い浮かぶどれとも少しずつ異なる。忌避感のあるにおいではなく、蚊取り線香の類ではなく、特別おいしそうなにおいでもなかった。

一番近いのは煙草のうっすらとした甘い香りだけどそれともやはり違い、結局わかりそうだけどわからないまま、その後は雨が降ってきて、窓を閉めざるを得ずエアコンをつけた。

えぐい

「程度が甚だしい」という意味で「えぐい」という表現を使うのをよく聞くけど、料理に対してその意味で使われているのを動画で見た。つまり食べ物を食べて「えぐい」と言い、それなのにおいしそうにしている、という様子。

私の母は「完全メシ」に必ず米飯が入っているものと思い込んでおり、テレビCMが流れるたびに「カップヌードルなのにご飯が入ってるの?」と訊いてくる。つまり「メシ」が食事という意味で使われていることにぴんときていない。

「えぐい」も逆ではあるけど同じことで、おそらくこの動画配信者は「えぐい食べ物」と聞いても反射的には「すごくおいしい食べ物」と認識するだろう。これは悪口ではなく、私の母でいえば「食事をメシと呼ぶ文化圏で育ってはいない」ということ。教養がないのではなく、集中している分野が多数派とは異なるということだ。

とはいえ人に伝える以上は勘違いは防ぎたいものだし、またそれはそれとして、もともと単純だった言葉に外で複数の意味をくっつけて逆輸入してこなくてもなあ、とは思う。そういうもやもやが発生するので、「すげーおいしい」という意味で「えぐい」と表現する人はあまりいないのだと思う。

ゾウをベランダで飼う夢

ゾウをベランダで飼おうとしている夢を見た。ゾウは特別好きなわけではなく、飼う大変さもうっすら理解しているので意気揚々というほどはない。でも「小さめのゾウはちょうどここのベランダのサイズにすっぽり収まる」というので、ゾウとの暮らしを始めるのに一種の必然性を感じている状態。

しかしとりあえず隣家との隙間にゾウを置かせてもらっていたところ、長い鼻で隣家の壁をばしんばしん叩く(トタンではないのにトタンのような)音がしており、こりゃまずい、急遽ベランダに上げよう、まずはこのオオカミの切り絵を使って入口に誘導だ、と試行錯誤しているところで目が覚めた。

「必然性を感じるから飼う」「すっぽり収まるから飼う」、というのが何かそれっぽい。自分が世界に収まらない変な形をしている自覚があるので、いざ自分の感覚にすっぽり収まる何かが出現するとそれを自分の人生の中に取り込みたい傾向にある。ただそれが隣家の壁を鼻で叩いていたのは気になる。

ともかく小説を書いているとよく夢を見るようになって、見る日が続くと「蓋が開き始めた」みたいな感覚がある。「花の蕾がゆるみ始めた」とかだとより芸術性が高そうだけど私の場合はなぜが「蓋が開く」感覚。現代的な気もするので悪い気はしない。普段はきっちり閉めているのかもしれない。